西和賀町 N.Sさん 20代女性 2019/04/22 6時〜8時体験
4月21日 日曜日朝5時のこと。 私は国道107号線沿いに流れる廻戸川のほとりに立っていた。廻戸は『まっと』という音で、もとはアイヌの言葉からきている地名だという。廻戸川は奥羽山脈の西の裾野に源流をもつ川で、ゆるやかに流れてやがて錦秋湖というダム湖にそそぐ。 この時期、ようやくの雪解けを迎えた川の水は深い碧色をしている。空の青と野の緑をちょうど混ぜたような奥行きのある色合い。この色が見られるのは、一年を通しても雪解けのこの時期だけだ。どういう仕組みでこの色が出るのかということはこのさい気にしないことにする。大事なのは、あの白い雪原の下に、こんなにも豊かな色が眠っていたというただその事実だけだ。
救命胴衣と座布団、ひざ掛けを借りてカヌーに乗り込む。碧の水面を滑るように漕ぎ出すと、つめたい朝の空気が肌に触れ、草木のにおいが鼻に届いた。なんとも気分がいい。廻戸の川はようやく冬を終えたばかりといった風情で、残雪が思い思いのかたちをとって両岸の斜面にへばりついている。これを『雪形』というらしい。右手からウグイスの声、左手から雪解け水の流れる音、うしろからは107号線を走る車の音が聞こえる。それにしても、とても静かだ。櫂が水面を叩く音が、静かな朝の景色に小気味よいリズムを与えている。
船頭の夫婦に「木々や鳥の名前を教えてほしい」と頼んだ。新興住宅街育ちの私は、地方出身といえども野にあるものの名前を全くといっていいほど知らなかった。「あれはアカシデ、」「あれはサワグルミ」「いま、水面すれすれを飛んで行ったのはオシドリ」情報量が多すぎてメモが追い着かない。「あの木に巻き付いているのはフジの蔓」「あの木は?」
「あの木はなんだろう。近づいてみましょう」船頭はそう言ってカヌーを寄せてくれた。「枝が緑っぽいから、ヤマモミジかな」モミジは秋に赤いのに、春の枝はこんなにも綺麗な緑色なのか、と感心した。
「木は動かないけれど、こうして名前を知っていくと、まるでそこ人がいるように見えてくるでしょう」船頭の青年が、どことなく弾んだ声で言う。本当だ。私にとってただの背景だったものが、いまは名前のある隣人として私のそばに在るような心地だ。カツラは高いところに咲く、サワグルミの芽は筆のかたち、ハルニレは木肌が乾燥していて老人の肌のよう。船頭たちの言葉は生きた実感に満ちていて、それからとても親しげで、私はなんだか大事なともだちの話をこっそり耳打ちされているような気分になった。ドゥードゥー、ボーボーと鳴くのはキジバト。ジージー鳴くのはカケス。短く可憐な鳴き声のキセキレイは人懐っこい鳥で、よく人間のそばまで降りてくる。名前を知ることが、こんなにも喜ばしいことだとは知らなかった。目の前に映る世界が、それまでとはまるでちがったものに見えてくる。
しばらくすると、流木と葉っぱの溜まりにぶつかった。流木を迂回するために、アオダモの枝をくぐって進む。ちょっとしたアトラクションの気分だ。アオダモの芽は黒っぽく、枝は灰色。やわらかく加工しやすいために野球バットの素材としても使われるそうだ。薄曇りの空を、斜めに2羽のコガモが飛んで行った。水面から、シロヤナギの枝が折れ曲がった腕を伸ばしている。雪解け水で川が増水するために見られる水没林もこの時期ならではの光景だ。
廻戸大滝が見えてくると、行きの航路も終わりに近い。ところどころに見られた小さな沢水の流れとは比べものにならない水流に圧倒される。大滝を近くで眺めることにし、カヌーをゆっくりと岸につけてもらう。サワグルミの枝に掴まって倒木を伝い、滝のたもとを目指した。なにせ不慣れなものだから足元はずいぶんおぼつかなかったが、サワグルミの枝はしなやかで丈夫だから、安心して体重を預けることができた。
流れを渡って、滝を見上げる。滝のそばにいると近くの人の声も満足に聞こえず、かえって静かだ。むきだしの山肌にはねて勢い盛んな本流がひとすじ、それからその裏に、細い水の流れがいくつか見える。奥羽の山ふところのいったいどこに、こんなにも激しい水の流れが隠れていたのだろう? しぶく水の一滴を雨雪の一滴とするならば、この土地の風土というものがおのずと見えてくる。長い冬を耐え抜いた山の快哉の声にしばし耳を傾けて、廻戸の滝をあとにした。水の音はしだいに遠く細くなっていったが、私の耳にはいつまでもあのうなるような滝のしぶきがこだましていた。
「水天のごとし」という言葉がある。空のように澄み切った水面の意味だが、鏡のように凪いだ湖面をイメージさせる言葉でもある。返す道で、廻戸川から錦秋湖に出た。両岸の木々がなだらかに開けて、広々とした空を望んだときの気分はたとえようもない。正真正銘ここでは水と風の音がするのみだ。ときどき早起きの鳥たちが、湖の音楽にいたずらっぽく興を添える。「3日前までは雪の島が残っていたんです」と奥さんが言った。あれだけ長かった冬も、終えてみればさっぱりとしたもので、碧の湖面が細い風をはらんで静かに揺れている。気づけば山裾を離れた太陽が、薄い雲の裏側から地上を覗きこんでいた。もうすっかり朝だ。風はやはりまだ冷たいけれど、雲を透かして届く日差しが背をあたためてくれる。
くるりとカヌーが旋回した。聞けばじき北上線の始発が通るころだという。広い湖の中ほどに一葉の舟を泛べて数分、左手のほうから緑と白の車体が見えてきた。船頭たちは手を振りながら、「たまにこっちに振り返してくれるんですよ」と言った。動画を撮るのに夢中になって、肝心の窓際を見そこねた。やはりこういうときは、自分の目と耳で確かめなければならない。
電車を見送ったあとは南に進み、水面から枝を差し伸ばす木々を見て回った。今はカヌーに乗っているが、私は以前、同じ場所を歩いて渡ったことがある。よく晴れた冬の朝には、高く積もった雪がみんな氷の道になる。これを『堅雪渡り』という。堅雪渡りのおりに教えてもらった黒い種のハンノキが、雪のとけた今でも同じ場所にあり、私はひどく感動してしまった。木の忍耐強さを思った。数か月前は雪で今は水、具合がわるくなったりはしないのだろうか。私だったらかぜをひく。二度目の再会にすっかり友人気分の私は、心ひそかにかれと再会の約束をした。次は、そう、湖の水がすっかり引いたころに。
こんな想像をした。木はみずから動くことはできないし、雄弁でもない。だから木のあんばいや機嫌は、碧の湖面に聞くといい。風と日差しは木の友人だ。大事な友の手助けをうけて初めて、木々はちいさく歌い出す。笑ったり、怒ったり、泣いたりしはじめる。私たちは湖をそうっと覗き込んで、はにかみやのご機嫌をそっとうかがう――そんな空想。
美しい水のたもとには営みが生まれ、そこに物語が生まれる。岩手の著名な作家といえば真っ先に宮沢賢治が思い浮かぶが、かれもきっとこういう空や水を見て育ったに違いない。かれの文章はいつも外のにおいがする。土のにおいがする。それは、絶えず移り変わる自然なるものを見つめ続けてきた人間の筆致にほかならない。深い輝きをたたえる湖のむこうに、私たちの敬愛する賢治先生の背中を見た気がした。そうこうしているうちに2時間のカヌー体験は終了。2時間? もうそんなに経っていたのかと驚いた。私の頭はまた、次は一体いつ乗りに来たものかと皮算用をはじめた。朝もいいがきっと夕方も格別だろう。何度だって乗りに来たい。なんなら毎日乗ったっていい。美しい水のほとりに生きる、たくさんの隣人たちに会いにいきたい。
水から上がった私は気分にまかせて車を走らせ、日当たりのよいところを見つけてごろり昼寝した。冬だったら当然死んでいるが、今は春。湖はますます輝くだろうし、じきに桜も咲くだろう。雪深い山峡の町にようやく春が来たのだ。これがどうして喜ばずにいられようか。
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